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日々見たものや思ったことがらをだらだらと
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「TURISTAS」 日本劇場未公開 2006 監督:John Stockwell
実は繰丸は今まで一度も海外旅行をした事がありません。

これまでそういう機会に縁がなかったというところが大きいのですが、
なんだか怖いのですね。
文化も言葉も違う土地に飛び込むという行為そのものが。

いや、決して興味がないとか嫌だとかそういう訳でもないのですよ?
むしろ行ってみたいなーとか思ってはいるのです。

しかし、そんな場所で万が一にでも何か大きなトラブルに巻き込まれた時、
もう何もかも立ちゆかなくなってしまうのではないか?などと、
そんな取り越し苦労も良いところな事を真っ先に考えて、
恐ろしくなってしまうのですね。

旅先の土地で、しかも海外で身動きが取れなくなり、
結果一人取り残されてしまって帰る事もできなくなるとか、
そんな事を想像すると、もうそれだけで泣きそうです。

これはもうさらにややこしい事態に巻き込まれた挙句に、
死んでしまう流れになってしまうのでは?とか、
悪い想像はどんどんエスカレートしてゆく訳ですが、
これは単に変なものを見過ぎて毒され過ぎという話ですね。
きっと。


とはいえ繰丸はコミュ障もよいところですので、
大なり小なり問題が発生した時に立ち往生してしまうのは、
まず間違いないと思います。

まぁガイドさんつきのコース旅行にしておけば、
そんな心配する必要も激減するのでしょうけれど、
そちらはそちらで集団行動が苦手という話でもありまして、
兎に角難儀なハナシな訳です。

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「DEAD END」 クロックワークス 2003 監督:Jean-Baptiste Andrea/Fabrice Canepa
どんなものでもそうですが、人手や手間がかかる事というのは
それ=お金がかかるというお話になります。

いやはや、いきなりしょっぱなから生臭いお話すみません。

なぜこんな話題からスタートしたかと申しますと、
「どんなものでも」と最初につけています通り、
これは映画製作という分野でも決して避けては通る事のできない
命題であるからです。

では「人手や手間がかかる」とは何を指しての事なのか?

まぁ何かを作るという事においては
全般においてそうであるという話でもある訳ですが、
ざっくりとここという要素を挙げてみるとするなら、
まず何より製作に関わる人間の頭数です。

これはスタッフ、キャスト双方含めての話ですね。

ここは家族と同じと考えてください。
大所帯になればなるほど日々の食費や光熱費がかかるのは、
想像するまでもないお話でしょう。

続いて手間の部分ですが、
機材やプロップの調達、運用といったものはもちろんの事、
ロケーションも手間に含まれる部分と言えると思います。

これらも人と同じくその数、量に応じて負担が嵩んで行きます。

最初から当て込まれたメジャー作品であれば、
人も手間も潤沢にかける事ができるものですが、
そうでない作品は常にそれらとの鬩ぎ合いの中で、
様々な取捨選択を迫られます。

いえ、メジャー作品にそういう事とは無縁であるという
そんなお話ではありませんよ?
当然そちらにだってついてまわる命題です。

そこはまぁ拾う事のできる量、規模の差という事ですね。

「TRESPASSERS」 日本劇場未公開 2006 監督:Ian McCrudden
ホラー映画というのはお安く上げられる
低予算映画の代表選手というようなお話もこれまでに
何度か繰り返しさせていただいて来ましたが、

1999年、
そのジャンルに一つの表現方法的なブレイクスルーが起こります。

ご存知「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の大ヒットです。

もともと擬似ドキュメンタリーという手法じたいは、
これまでにも存在していましたし
ここの部分は実はそれほどトピックたる要素ではありません。
(その手の手法を用いた過去の名作としては「食人族」が挙げられます。)


それよりもこの映画のヒットを受けて、
多くの製作者が「これだ!」と膝を打ったのは、
おそらくハンディカム撮影という部分でしょう。

単に手ぶれ等による臨場感どうのというお話ではありませんよ?

意図的にそういう手ブレ演出を盛り込んだ物は
当然過去にもありますしね。

まぁもちろんその部分も無いとは言い切りませんが、
要は機材を限定化する事であくまで演出の一環として
造り手的に都合の悪い部分をはっきり見せないで済むという
そういう部分を手法として一般化させた事が、
この「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の最大の功績であると、
繰丸は考えます。

「SEXYKILLER, MORIRAS POR ELLA」 日本劇場未公開 2008 監督:Miguel Marti
ホラー映画というのは実に混沌としたジャンルで、
その先から枝分かれするスラッシャー物、ゾンビ物、
ゴア物、サイコ物などといった細かなサブジャンル分けのうち
様々な要素を併せ持つとりあえずなんでも入れとけというノリの
ゴテ盛りのような、どのジャンルとは特定しがたい
実に不思議な映画が生まれてくる事が結構な割合であったりします。

これも以前お話させていただいた通り、
ホラー映画というの例えるなら駄菓子のような、
そういう雑さをも許容されやすいジャンル故に、
ポジティブに表現するのであるなら「意欲」を
作る側も込めやすい土壌があるのだと思います。

単にあれもこれも乗せておけば、
どれかの要素がひっかかるだろうという考えの上で、
そういうものが生まれてくるのかも知れませんが、
まぁそこはそれです。

我々観る側の人間は出来上がった物をただ、
面白い面白くないと判断するのみですので、
どういう意図を持ってそれが生まれてきたのか?
という部分はあまり深く考えなくてもよい事かも知れませんね。

「UNDEAD」 アートポート 2003 監督:Peter Spierig/Michael Spierig
ゾンビ映画の源流を「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」以前に遡ると、
「地球最後の男」(1964)という映画につき当たります。

世界に謎のウィルスが蔓延し、
それに侵された人は全て夜にしか活動できない吸血鬼と化した世界で、
ただ一人生き延びた男ネヴィルの孤独な戦いを描いたもので、
こちらに登場するのはゾンビではなくあくまで吸血鬼なのですが、
その吸血鬼の描写を始め様々なゾンビ映画的要素の大元が、
すでに揃っているのですね。

怪物化の原因がウィルス感染であったり、
それに対する抗体や血清等にも触れられていたりと、
むしろ後発作品が取り入れてゆく要素がすでにこの段階で揃っている辺り、
「地球最後の男」のネタとしての先進性や普遍性には驚かされます。

そしてもう一つ注目すべき点は、
本当の加害者は誰であったのか?という部分が
物語の核心部分であるという点ですね。

この辺り1971年にリメイクされた「地球最後の男オメガマン」では
劇中ストレートにセリフとして出てきますが、
「この世界から見れば人間であるお前こそが怪物なのだ」と、
主人公のネヴィルは吸血鬼たちに言われてしまうのです。

同様の視点で藤子F先生も「流血鬼」という短編を執筆されていますが、
短いページで「地球最後の男」の要素を凝縮した傑作短編ですので、
興味が湧いた方は是非一読していただきたいです。

「THE QUICK AND THE UNDEAD」 日本劇場未公開 2006 監督:Gerald Nott
ゾンビ映画の多くは「事の始まり」を描いた物が多く、
日常が崩壊してゆく渦中に主人公が巻き込まれ、
サバイバルを繰り広げる…というパターンがほとんどです。

そしてもう一つのお決まりのパターンとしては、
ゾンビ発生という事態については、
その原因が明らかなものもそうでないものも、
大凡その現象そのものが終息するところまでは
描かれたりしない事が多いです。

だいたいは主人公たちの立て篭もりサバイバルや、
脱出劇についてどうなったか?に焦点が当たっており、
その顛末を語る部分でお話は終わります。
(あくまで「だいたいのパターン」の話ですので、
当然例外もありますけどね)

まぁそうなるのも解ります。
これもまた何度も語らせていただいている事ですが、
やはりゾンビものというのは人間側のドラマが中心な訳です。

乱暴な言い方をすれば
ゾンビが発生しているという事については、
単に舞台背景的な設定に過ぎない訳で、
実のところそれほどプライオリティの高い物でもないのですね。

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